#32 キッチンABC 有限会社東京フードサービス 専務 稲田 安希さん
豊島区を中心に4店舗で営業されている「キッチンABC」は、今から半世紀以上前、昭和44年に創業された街の洋食屋さんです。お話を伺った稲田さんは、おじい様が創業され、お父様が承継された会社に、飲食とは関係ない業界からの転職で入社されました。
入社の決め手は、社長であるお父様をはじめスタッフの皆さまの “お客様の笑顔”という創業当時から引き継がれている想いに共感されたことだそうです。入社後に始められた新規事業や事業承継についてもお話しいただきました。
社会の流れにマッチした新しい挑戦
― 本日お伺いしておりますこちら「ABCファクトリー」は、有限会社東京フードサービス(キッチンABCを運営する会社、以下“TFS”)の中でどういう位置づけなのでしょうか。
稲田 キッチンABCで提供している料理を冷凍して流通させるという目的で、私が入社した後に立ち上げました。提供する商品のベースはお店と同じですが、冷凍に適した食材を使ったり、製造工程を少し変えたりすることで比較的低価格でお店と同じ味の料理を提供しています。
自動販売機の商品を手にする稲田さん
― マーケティング戦略の4P(「Product(製品)」「Price(価格)」「Promotion(プロモーション)」「Place(チャネル)」の頭文字をとったもの)で言うところの「Product」(お店と同じ味の料理)と「Price」(比較的低価格)ですね。「Promotion」「Place」についても意識されていることはありますか。
稲田 商品が一目で分かる写真を大きく表示(「Promotion」)した自動販売機(「Place」)を、住宅街を中心に7か所(2023年10月取材時、2024年9月時点では8か所)設置しています。今後もっと増やしていきたいです。
― アプローチする顧客のターゲットは、キッチンABCに来られるお客様と同じですか?
稲田 想定しているターゲットは、大きくは4つの層で①一人暮らし世帯、②複数世帯で個食、③共働き世帯、④高齢者世帯です。それぞれ、①一人用の料理を作るのは大変で経済的でない、②個々に生活スタイルが違うため異なる時間帯に手軽に出来立ての食事をとりたい、③調理時間を短縮しながらも温かく栄養バランスの良い手作りの食事をとりたい、④買い物に行く回数・調理の手間を減らしたい、というニーズがあると考えています。温かい街の洋食屋の味を、お家で簡単に楽しんでいただきたいです。
― コロナ禍以降、餃子やラーメンなどの自動販売機をよく見かけるようになりました。コロナが収まっても自販機需要は減少しませんか?
稲田 私はなくならないと思っています。今コンビニが冷凍食品に力をいれているのも、今後伸びていくと考えているからだと思います。物流の2024年問題や食品ロス削減の観点からも、配送回数を削減でき、賞味期限が長い冷凍食品は、今後の社会の流れにマッチしていると感じています。
― セット商品などいろんなメニューが選べて楽しいですね。
稲田 そこはこだわっているところです。目の届く範囲で製造から配送まで自社でやっているからこそ、地域のニーズに合った商品が提供できます。街の洋食屋ならではの豊富なメニューと、販売データをもとに場所ごとに提供する商品を機動的に変えられることは当社の強みです。
地域ごとに異なるニーズに合わせたメニューを提供
みんなの想いを言葉に
― ホームページを拝見すると、店舗情報やメニューだけでなく、お店のこだわりやミッション、クレド(社員の行動指針)が記載されています。
稲田 TFS入社前ですが、前職のIT企業に就職したことをきっかけに、それまで無かったキッチンABCのホームページを作り、InstagramやTwitterでお店の情報発信を始めました。社員としてではなく、趣味の範囲でやっていましたが、情報発信するにあたってスタッフさんと密にコミュニケーションを取るようになりました。
スタッフさんと話をしていると、お客様やお店に対して共通した想いがあることが分かりました。その想いを言語化して、社内に限らず外にも見えるようにするために、入社後にホームページを作り直しました。
― もともと社内にあった暗黙知を見える化されたのですね。
稲田 社長やスタッフさんには当たり前のことで、身体にしみついているので明文化されていませんでした。最終的に言語化したのは自分ですが、お店に関わるみんなが想っていることです。ありがたいことに、飲食店にしては珍しくスタッフさんは何十年も勤めてくださって、ほとんど辞める人がいないんです。長く通ってくださるお客様も多いですし、お客様との距離が近くアットホームな雰囲気で働きやすい環境なんだと思います。これまでは見えなくても成り立っていましたが、これから入ってこられるスタッフさんやお客様とも想いを共有していくためには、見える化が必要だと考えました。
ホームページのトップページに掲載する想い
親子三代にわたる事業承継
― TFSは、おじい様が創業され、お父様が引き継がれました。そして現在稲田さんも入社されておりますが、事業承継は計画的に行われてきたのでしょうか。
稲田 祖父から父への事業承継はあまり上手く行っていなかったようです。父は若い時から料理人として現場に身を置いていましたが、経営者と現場の間にギャップが生じていると感じていました。そのようなお店に対する父の意見は、祖父には全く聞き入れてもらえなかったそうです。父が考案し、今でこそ看板メニューになっている「オリエンタルライス」や「黒カレー」も激しく否定されたと聞いています。
父が会社を見るようになったのは祖父が亡くなってからです。約10年前から料理人としてではなく、経営に専念するようになりました。
― お父様の代になって、それまでとは経営方針は変わったのでしょうか。
稲田 祖父の代のことは分かりませんが、父は「料理人としての想い」「お客様目線」「現場感覚」というぶれない軸を持って経営を行っていると思います。
その軸があるからこそ、料理人やスタッフ、会社に関わる方々から信頼と尊敬を得られており、「ついていきたい」と思われていると感じています。
― 一方で、稲田さんはTFSに入社されてから、冷凍事業を立ち上げたり、Instagram等でお店の情報を発信したりといった新しい試みに取り組んでおられます。お父様や社内の反応はいかがでしたか。
稲田 現時点で何かを始めるにあたって最終決定するのはもちろん父ですが、自分で考えて責任を持って行動するように、と将来も見越して任されているところもあります。父は「とにかくやってみないと分かんないよ」というスタンスなので、新しいことも受け入れられやすい環境です。
冷凍食品については、新しく正社員を募集してお店とは別の場所で始めたので、最初のうち他のスタッフさんからは「何をやっているんだろう」と思われていたと思います。現在は会社全体の取り組みとして、店舗で得られた知見を活かして冷凍食品を改良し、その商品を店舗で販売することで売上アップに繋げるというサイクルができています。
― お店の運営や経営についてはOJTで学ばれているのでしょうか?
稲田 入社後に父から特に何か指示されたことはないのですが、自分に何が必要かを考えて、TFSで働きながら大手外食チェーン2社でアルバイトを掛け持ちしました。店舗のオペレーションやシステムの最先端を学び、自社に取り入れられるところは取り入れてきました。
― 例えばどのようなものですか?
稲田 効率化の面では、Airレジを導入して注文履歴を伝票ではなくウェブ上で確認できるようにしたり、電話で行っていた材料の発注に受発注アプリを活用したりしています。逆に、他社が導入しているタッチパネル式の注文や配膳ロボなどは考えませんでした。「いつものねー」「しばらくぶり、今日は何にする?」といったお客様とのコミュニケーションや、料理人が厨房で手作りした出来立ての料理をホールスタッフが丁寧にお出しするというところがうちの魅力だからです。
時代と共に変わる「昭和生まれの洋食屋」の価値
― 物価高が続いています。人件費や食品の値上がりにはどのように対応されていますか。
稲田 昨年から2回ほど値上げをしています。企業努力ではどうにもならなかったところですが、お客様にとってリーズナブルな価格で良い料理を提供する、ということを常に考えて改善しています。食材にはこだわっていますが、今まで使っていた野菜が高騰してしまったら、他の食材との組み合わせで出すなどの工夫もしています。
― 値上げは受け入れられやすい状況だと思いますが、値上げによって来客数が減ったり客層に変化があったりしましたか。
稲田 既存のお客様の来店回数が減るという影響は、少しはあったかもしれません。けれどもありがたいことに、なかなか頻繁には来れないけどまた絶対来るからね、と仰ってくださるお客様もいます。
客層の変化については、以前は男性のお客様が中心という印象でしたが、女性のお客様も増えました。週末には赤ちゃんを連れたご家族、海外からのお客様やカップルがデートで来られることもあり、いろんなシーンでお店が利用されるようになってきたと感じています。
― そのような変化はどうして起こっているのでしょうか。
稲田 時代の変化だと思います。昭和の食堂から変わらない形で営業を続けておりますが、そういうお店が時代の流れと共に少なくなってきています。だからこその希少性が生まれていると思います。
― 女性や家族連れが選びやすいメニューを増やしたということはないのですか?
稲田 うちが提供してるものや価値は変わっていないです。もしかしたら、私が女性目線で情報発信していることが少しは影響あるかもしれませんが、やっぱり時代だと思います。社会の変容によって、ものの見方や価値の再定義みたいなものが起こって、以前よりも広い層に受け入れられるようになってきたのかなと思います。
― 来年(2024年)は創業55周年、2025年は昭和100年です。「100年後も愛される街の洋食屋」を目指しておられますが、現在認識されている課題はありますか。
稲田 進化を続けながらお客様が求める価値を提供し続けられるよう、既存と新規をうまく混ぜ合わせていく事だと考えています。私も含め新しいスタッフが入ってきたり、何か新しい試みを始めたりしたときに、お客様にどう受け入れられるのか。その中で変わらない軸をもち、バランスよくカルチャーをミックスしていけるようにしたいです。
昭和の雰囲気を残すお店と真新しい自動販売機の融合
(取材内容は2023年10月現在)
[会社情報]
キッチンABC(有限会社東京フードサービス) HP: https://tf-abc.co.jp/ Facebook: キッチンABC X(旧Twitter):キッチンABC 〒171-0021 東京都豊島区西池袋3-26-6 |
(余録)
キッチンABCには、各店舗のスタッフに会うために通ってこられるファンの方も多いそうです。緊急事態宣言が出ていた時期には、お客様から励ましのメッセージや手紙がたくさん届き、その中には「生活に必要な場です」という内容のものもあったとか。単に食事をする場所であるだけでなく、サードプレイスとして機能しているということに新鮮な驚きと長く愛されている理由を垣間見た想いがしました。昭和生まれの街の洋食屋さんは、100年後の昭和200年には社会にどのような価値をもたらしているのでしょうか。(水越嘉隆)