「羽田クロノゲート」を見学して物流の進歩を想う

国際部 東  新

 2017年6月29日に国際部主催の現場視察ツアーに参加して、ヤマト運輸㈱の「羽田クロノゲート」(図-1)を見学した。羽田クロノゲートは2013年9月に開業した6万坪の日本最大級の物流ターミナルで、羽田と言う立地を活かして輸送のスピード化のみならず流通の中間地点としての付加価値機能を備えた物流拠点である。
          

 当日は、一般の見学コースでは見られない施設にも案内をして頂き、様々な機能(図-2)を見ることが出来た。これ等は「バリュー・ネットワーキング構想」の一環で、last one mileの人手不足を解消する日本の成長戦略を担うことを標榜している。ヤマト運輸が宅配便で培ってきたノウハウに、輸送技術の進歩と最新のIT技術を組合せた日本ならではのきめ細かいサービスで、海外でも取入れられるビジネスモデルと言える。
 
        【図-2】羽田クロノゲートのHPから

 ここで思い出すのが、物流の革新的ビジネスモデル“ハブ機能”であるが、これは物流大手のFederal Expressの創業者がイエール大学在学中に提出したレポートが基になっている。即ち、ある教授が「米国50都市(?)を結ぶ運送会社にとって何台の飛行機を所有する必要があるか?」と言う問題に対して、創業者のフレッド・スミス氏は「ハブ・アンド・スポークシステム」の原案になるレポートを提出したが、教授に‘C’の評価を受けた。これに発奮して事業を立ち上げて“オバーナイトデリバリー”を実現したと言う話である。ハブになる都市が1箇所であれば、49機の飛行機を持てば済む訳で、教授はそのアイデアがシンプルすぎる為に評価を落としたに違いない。これは、イノベーションの代表的な事例として、数年前の城西支部新年シンポジウムで講演された一橋大学の米倉誠一郎教授からお聞きしたものである。
 ところで、この羽田は私にとって思い出の多い場所である。始めて羽田空港に行ったのは昭和30年頃だったと思う。父が海外の航空会社の機内食を納める仕事をしていたのだが、その当時のターミナルはモノレールの「羽田整備場」の近くであった。その後、父は日本で初めてのアナカン(unaccompanied baggage:別送荷物)専門の会社を設立し長い間羽田で仕事をしていた。私が初めてアメリカに行った時は羽田空港からであった。丁度ジャンボジェットが就航した年で、ホノルルからサンフランシスコ間で搭乗したことを覚えている。
 そして1972年に私は商社に入り国際郵便や国際貨物を身近に体験するのであるが、それから45年の間の物流の発達は目覚ましいものがある。この機会に当時を思い出しながら郵便、貨物、通信事情の変化を体験を基に紹介したい。
当時の国際郵便は2回に分けて送っていた。第1便で「Original」(或いはFirst mail)と「Triplicate」(Third mail)を発送し、数日後に「Duplicate」(Second mail)を発送するのだが、目的地まで危険や天候の影響を受ける海上輸送で確実に相手に郵便(船積み書類)を届けるためにとられた手段である。ICTが発達した今では、同じようなことをしているとは思えないが、、、、1984年にニューヨークの駐在員になった時の通信手段はTelexが主流であった。国際電話はまだ高かった時代で、緊急時以外は使わせてもらえなかった。しかし、FAXが導入されると見る見るその機能は向上し、G1と言われたものがG3になり6年半の駐在員時代を終える頃には、Telexに代わる通信手段の主流になっていた。そのお陰で、時差のある本社に深夜までTelexを送る仕事(当番制だった)は随分楽になったものである。その頃米国ではオーバーナイトデリバリーサービスが発達し始め、米国内の殆んどの取引先に資料やサンプルなどを翌日配達することが出来る様になった。日本ではなかったサービスで、UPS、Federal Express、DHLなどの業者があった。当時家族ぐるみのお付き合いをヤマト運輸の駐在員としていたが、その後ヤマト運輸はUPSと業務提携をすることになる。
 商社での仕事は、もっぱら米国メーカーの機械類を日本に輸出することであったため、エア・フォワーダーと呼ばれる会社(航空貨物の運送・通関代理業者で乙仲とも呼ばれている)との連絡が多く、急ぎの貨物で航空便にする時は飛行機のスペースを取る為に無理な交渉をすることもあった。日本の食品会社に連続式のフライヤー(ファストフード店などで売られるチキンナゲットなどを作る機械)を輸出した時は、新商品の発売日に間に合わせる為に飛行機で運ぶことになり、サイズが大きいためにジャンボジェットのノーズローディング(図-3)をすることになり、深夜JFK空港で立ち会ったことを覚えている。これはめったにないことと航空会社の担当者から聞かされて、商社マン冥利につきる思い出になっている。
                 
                      【図-3】ノーズローディングの風景

 ところで、赴任したばかりの駐在員にとって有難い存在はフォワーダーの駐在員である。家族が現地で生活を始める時に日本食品を買う場所や子供の行く学校の様子など、現地の事情をよく知っている彼らから情報を得ることが出来る。また、現地の新しい拠点に事務所を開設する時などもいろいろな情報を提供してくれるので、私は中小企業の海外進出の相談を受ける際に現地のフォワーダーの人と仲良くなって情報を得るようにアドバイスをしている。
 私は1999年から2回目の米国駐在を2年間した。その時は光通信機器メーカーの現地法人を設立して、営業拠点にする為の仕事であったが、光ファイバーの敷設が急速に伸びた時期で業績は怖いぐらいの急成長であった。然し1年もすると状況は様変わりしてITバブルの崩壊を味わうことになり、さらに追い打ちをかけるように9.11同時多発テロが起こるのである。その時の事務所はマンハッタンの対岸にあるニュージャージーにあった為直接の影響はなかったが、ハドソン川に近い自宅アパートに帰るのに通常20分のところを交通規制のため3時間近くかかってしまった。そして自宅に帰ってテレビを見ていると、地上波放送が1局また1局と画面から消えてしまうのである。不思議に思っていたが、殆んどの電波はワールドトレードセンターから発信されている為と分かり、最後に残ったのはミッドタウンのエンパイヤステートビルから発信していた1局のみになったのである。今では光ケーブルを通してデジタル化された放送を見る家庭が多くなり、その様なケースは減ったと思うが、これもICTが発達したお陰である。
 さて、これから物流や通信がどれだけ発達して生活の利便性が上がるのか、将来については考えもつかないが、70年近い人生をこうやって振り返るのも面白いものである。クロネコに感謝である。



以上

(2017年7月)



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