インドネシアにおける工業団地・経済特区の開発

元山 純一郎



 最近、久し振りにインドネシアを訪れる機会があった。インドネシアは、ASEAN10カ国中で最大の国土と人口を有する可能性にあふれた国である。世界4位の人口を背景にした国内市場から、1997年のアジア通貨危機やリーマンショックからあまり影響を受けておらず、2000年以降は急激な経済発展を遂げている。親日的な国で2030年まで続く人口ボーナスなどに惹かれて製造業を中心とした日本企業の進出が続いている。ジャカルタのスカルノ・ハッタ国際空港は、新しいターミナルビルが建設されているにもかかわらず相変わらずの混雑振りである。以前に入国した時には、“Visa on Arrival”を取得して入国したが、今回の入国では観光目的や国際会議・セミナーへの出席、国際協力関係の業務では、No-Visaでの入国が可能となっていた。インドネシア政府も本腰を挙げて外国からの投資や観光客の誘致に取組んでいるとのことである。空港から都心への高速道路は深夜ということもあり、交通混雑もなくタクシーは順調にホテルへ向かう。タクシーの窓からは、いくつもの高層ビルや建設中のタワークレーンのシルエットが美しい照明に浮かび上がっている。ジャカルタは間違いなくアジアを代表する大都会であることを実感する。
 今回の訪問では、都心にある現地政府関連事務所への訪問以外にジャカルタ郊外の日系企業による工業団地を視察するのが目的であった。ジャカルタの交通混雑は他の都市ではみられないくらい酷いと聞いていたが、翌日からの市内での移動でそれを実際に体験することになった。ジャカルタ市内の港湾施設を訪問した後にジャカルタ郊外の工業団地を訪問したが、往復で合計7時間を車上で過ごすことになった。交通混雑は都心だけでなく都心と郊外を結ぶ高速道路でも発生しているのである。都心から約30キロメートルの距離にある多くの工業団地へ通うのに平均2~3時間が必要とのことであり、都心の住居から工業団地へ通う日本人社員は、早朝に自宅を出て夜に帰宅する生活を送っているとのことである。現在、ジャカルタ市内を南北に貫く目抜き通りで地下鉄工事が行われており、それも交通混雑の原因のひとつであるとのことであるが、自動車の絶対数が増えていることは間違いない。
 インドネシアの工業団地は、1990年代前半から日本の大手商社等が現地の有力財閥グループと組み本格的な開発が始まっている。日本を代表する大手商社や建設・不動産等の企業がジャカルタから東へ伸びる高速道路沿いに工業団地の開発を行っており、インドネシアの代表的な工業団地ベルトとなっている。ジャカルタの西側に位置するバンテン州はスマトラ島への渡航地点であるが、ここには日本の戦後賠償により建設されたクラカタウ製鉄所があり、その関連施設として1982年に工業団地が整備されており、歴史的にはインドネシアで最も早く建設された近代的な工業団地のひとつと言える。こちらには専用港が建設され、日系の鉄鋼、化学、ガラス産業、等の装置産業も多く立地している。

     

                 ジャカルタ周辺の工業団地配置図
    出典:http://butler-japan.asia/jakarta-kogyo-danchi/jakarta-industrial-park-center-map/

 インドネシアにおける工業団地の開発は、インドネシア政府による工業化政策と密接に関連していることが指摘されている。1970年代には農業がGDPに占める比率では45%、就業人口の66%を占めており、工業のGDP比率は10%程度であった。1980年代は原油価格の高騰により鉱業が経済活動を牽引し、工業の比率は1980年台から急速にかつ継続的に伸びて2000年代始めにはGDP比率は30%近くまで上昇している。スハルト政権は、1967年に「外国投資法」を定めて工業部門へ積極的な投資を呼び込んだ。「輸入代替化政策」として、繊維、家電製品、自動車などに輸入関税を導入し、外資企業の現地生産化を促した。一方では、木材資源について丸太での輸出を禁止し、製材、合板、紙パルプ、等の国産化と輸出を促す「輸出代替化政策」が実施された。これ等の政策がインドネシア、特にジャカルタ近郊における工業団地の開発を多いに推進する役割を果したと考えられる。この時期には、大規模な投資を伴う鉄鋼、石油精製、肥料、造船、産業機械などの分野では国営企業により産業開発が図られた。民間企業もスハルト政権と緊密に連携して資本の集積を図り、大規模な土地を取得して住宅開発や工業団地の開発などに乗り出している。
 今回は日本の商社が現地の有力企業と組み開発された3カ所の工業団地を訪問する機会があったが、いずれも800ヘクタール、1300ヘクタール、3200ヘクタール(都市開発1600ヘクタールと工業団地開発1600ヘクタール)、という大規模なものであった。いずれの工業団地にも日本の有名な二輪・四輪車メーカーや家電メーカーの組立工場が立地しているほか各種部品メーカー、それを支援するためのホテルやレストラン、なども立地しており、壮大な開発計画である。中にはゴルフ場やショッピングモール、現地有名大学の誘致を計画しているところもあった。


            
      拡張が続くタンジュンプリオク港       壮大な構想の下に進む工業団地(幹線道路)

こうした民間主導の経済開発政策は、都市部と地方、ジャワ島とそれ以外の外島、での経済格差を生じる結果になった。しかし、1998年にスハルト政権が崩壊すると世界銀行等の指導もあり、2001年には地方分権の政策が導入された。これにより中央集権的に進められてきた経済開発政策も、地方政府の意向に基づき実施されることになり、この方針は現在も踏襲されている。工業団地の開発に関連しては、人口集積が大きくインフラ整備も進んでいるジャワ島に集中していたが、地方部やジャワ島以外の外島における経済開発の手段としても役割を果たすことが求められるようになった。
しかし、こうした地方部やジャワ島以外の外島における工業団地開発には何らかのインセンテイブがなくては、経済的合理性を基に事業活動を行っている民間企業、特に外資を誘致する事は難しい。2009年には経済特区法を整備して経済特区の開発を志向することとなった。2014年に発足したジョコ政権は、貧富の格差解消や地域間格差の是正を政策目標に掲げ、ジャワ島や首都圏への投資の集中を防ぎ、地方における工業化や輸出産業尾を育成することを進めている。

     
       インドネシアにおける経済特区開発計画(2015~2019)出典:BKPM


 2015年に発表された国家中期開発計画(2015~2019)では、ジャワ島以外の工業団地(既存74ヶ所、新規14ヵ所)、経済特区(既存9カ所、新規7カ所)、自由貿易地域(既存4カ所)の整備を行うことが謳われている。経済特区の開発では、これまでの工業団地には付与されていなかった税制面での優遇措置などを与える経済特区の開発が検討されるようになった。

インドネシア政府による経済特区の開発への取り組みは始まったばかりである。ジャワ島以外の外島や地方部はグローバルサプライチェーンのルートから外れているところが多く、国内市場からも遠いのに加えて、インフラ施設の不足、電力・ガス等の安定的な供給、地方政府が窓口となる各種許認可、手続きは煩雑で時間が掛かる、などの課題が多く、今後の施策と実行力が注目されている。
元山純一郎
参考資料:
・「経済大国インドネシア21世紀の成長条件」佐藤百合、中公新書


以上

(2017年5月)



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