「黄金のベンガル」はよみがえるか?

国際部 元山 純一郎


 2011年末以来、約5年間にわたりバングラデシュでのプロジェクトに携わっている。日本政府によるODA資金を使用した社会調査案件である。多くの日本人にとりバングラデシュはあまり馴染みがなく、そのイメージもあまり良いものではない。曰く、「世界の最貧国のひとつ」「サイクロンで多数の死者が発生」、そして最近では「縫製工場の崩落事故」や「日本のODA関係者7名が犠牲になったところ」などなど。
 しかし、この国にもかつて「黄金のベンガル」と呼ばれた時代があった。バングラデシュとは「ベンガル人の国」を意味しており、ベンガル語を話す人々により成立しているとされる。この地域では13世紀に西側から侵攻したトルコ勢力により追われたモスレムによる王朝が開かれ、しだいにモスレムに率いられた先住民の農民集団が形成されて行った。但し、この時代の先住民はまだモスレムでもヒンズー教でもなかったようである。8世紀には仏教がインドから伝来し、世界でも古い仏教寺院の跡が世界遺産として残っている。この地域はやがて16世紀にはトルコ系モスレム王朝であるムガル帝国に併合される。また、16世紀にはガンジス水系の流れが東へ変わり、東ベンガルの地域も北インドのガンジス水系の経済圏との結びつきが強化された。この時代においては住民の間ではヒンズー教とモスレム教が相互浸透的に信奉されていたようである。
 ベンガル地域はインド亜大陸の東側を流れる大河がもたらす氾濫により豊穣な土地に恵まれており、それがムガル帝国の銀貨と勤勉なモスレムが率いる農民集団により開拓が進められた。その結果、このガンジスデルタ地域は綿織物や米の輸出地として栄え、17世紀にはアジアの中で最大の対欧州輸出地域となって行く。モスレムが率いる農民集団による開拓の進展とともにモスレム教が浸透して行くことになる。その後、この地域はイギリスによる植民地経営の下に置かれることになる。1947年に英領インドから独立する時には宗教上の違いから、ヒンズー教を信じる地域がインド、モスレム教を信じる地域が西パキスタンと東パキスタンにそれぞれ分離独立された。東ベンガルにいたヒンズー教徒は徐々に西側へ移動して行き、それらの地域は現在のインド・西ベンガル州となっている。
 1970年に発生したサイクロンによる大災害に対してパキスタン政府は東パキスタンへの支援を行わず、これが1971年に達成されたバングラデシュ独立運動の契機となった。この時には、インド政府は東パキスタンからの1,000万人以上の難民を受け入れたほか、軍事的な支援も行っている。当時米国はパキスタンと親密な関係にあったことからバングラデシュの独立に不満であり国連で議論すべく準備をしていたが、ソ連とインドはこれを阻止してバングデシュの独立が認められることになった。日本政府はバングラデシュの独立と同時に国際社会に先駆けていち早くこれを認知したが、この行動はバングラデシュが親日国となるベースになっているとも言われている。日本政府のバングラデシュの早期承認については、当時米国が日本の頭越しに中国への接近を図ったことに対する「不快感の表明」であるとする説もある。その後も日本政府は1974年に永野重雄日本商工会議所会頭を団長とする超大型経済使節団(通称、永野ミッション)を派遣し、同使節団が作成した報告書がその後バングラデシュの開発に重要な役割を果すことになる多くの案件へ結びついた。
 日本政府は、その後もバングラデシュのあらゆる分野で開発支援事業を継続しており、円借款の供与額ではインドとならび最大の供与国となっている。バングラデシュにおける日本の評価が高いのは、こうした継続的なODA資金による開発支援活動の展開が大きく貢献している。2014年にはバングラデシュ・ハシナ首相と安部普三首相が相互に訪問し、日本政府はバングラデシュの経済発展のために4~5年間で総額約6,000億円の円借款を供与することが合意されている。その中心となる事業としてベンガル湾産業成長地帯(Big-B)構想や、ダッカ市内のLRT建設、ダッカ国際空港建設等大規模な案件が目白押しである。小生が現在参加している「経済特区開発計画」はこのBig-B構想に一部関連している。こうした大規模な支援の裏には、バングラデシュがもつ地政学的な重要性への配慮や中国が進める「真珠の首飾り」構想へ対抗する意図もあるようだ。
 民間事業の活動に目を転じてみると、世界の工場として活動してきた中国が経済発展とともに人件費等の高騰により急速に国際競争力を失っており、労働集約的な産業はベトナムやミャンマー、インドシナ半島の国々へ生産設備を移す動きが目立っている。バングラデシュはこうした産業等の受入に積極的に取組んでおり、2008年にはユニクロが生産委託の形でバングラデシュへの進出を果している。この動きに触発されたように、最近はバングラデシュにも多くの日系縫製産業の進出が見られるようになった。また、縫製産業に関連した製品である産業用ミシン(JUKIやブラザー)やジッパー(YKK)、機能性繊維(東レ)等の進出も見られる。 
    
     混雑の激しいダッカ市内の道路                 ダッカ輸出加工区のゲート

 しかし、順調な経済発展が期待されていたバングラデシュで本年7月1日に痛ましい事件が起きた。冒頭にも記したJICA専門家7名を含む外国人20名が首都ダッカ市内で殺害されるテロ事件が発生したのである。バングラデシュ政府はそれまで国内ではイスラム原理主義者によるテロ活動は起きていないとの見解を示しており、日本側にも「親日国であるバングラデシュにおいては日本人が標的になる事はないであろう」という漠然とした期待感のようなものがあったのではないだろうか。幸いにも小生が参加する調査団はラマダン(断食月)ということもあり、現地には滞在していなかったが、犠牲となった調査団とは昨年に面談しており名刺を交換した方も含まれていた。事件が起きたイタリアンレストランは日本人が居住する比較的安全といわれた地区にあり、現地に滞在していれば事件に巻き込まれた可能性も考えられ、ニュースを聞いた時には冷や汗が出た。バングラデシュの発展のために厳しい条件下で活動してきた専門家が、こころざし半ばで斃れた無念さに思いを巡らす時、何ともやるせない思いにかられる。
    
      会談中の安部首相とハシナ首相               テロ事件現場で献花するハシナ首相

 情報によれば、事件を起こした犯人には貧困にあえぐ若者ではなく、比較的裕福な家庭の子息達が含まれていたとのことで、これも想定外のことであった。裕福な家庭に育ったが故に世間を知らず、IS等による過激な思想に染まりやすいという分析もされていた。バングラデシュでは年間数百万人の学生が労働市場へ新たに参入しており、これらの若者に職場を与えることは政府の大きな負担となっている。日本政府による多くの支援事業も直接・間接にこうした要求に応えるためのものが多い。
 この事件以来、調査団の現地への渡航は禁じられており、限られた情報の中で国内において業務を進めているが、早く現地の治安状況が回復して正常な環境で業務を遂行できる時期が訪れることを念じている。犠牲となられた方々のご冥福を心より祈るとともに、かつての「黄金のベンガル」の輝きが一日も早く再現されることを願っている。

参考資料:
「バングラデシュを知るための60章」【第2版】 明石書店
「地球の歩き方 バングラデシュ」 ダイヤモンドビッグ社
Big-B構想:http://www.jica.go.jp/press/2014/20140617_02.html

以上

(2016年9月)

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