ブラジルの治安~オリンピックを控えて

国際部 中村 寛

1. はじめに
 私は勤務先での転勤で、1993年1月から1996年10月までをブラジルで過ごしたが、その当時日本企業はブラジルにおける経済活動に総じて及び腰であった。それはブラジルが1983年に対外債務の元本返済を停止し、1987年には利払いまで停止(いわゆるモラトリアム)、その後元本の35%がカットされたことで、外国の民間金融機関をはじめ、外国企業がブラジル経済に魅力を感じなくなっていたからだ。ブラジル日本商工会議所の日本企業会員数は1980年代初期の215社をピークに減少を続けし、1990年には186社(ピーク時の86.5%)となり、そのトレンドは141社となる2004年まで続いた。
 その後2000年頃からは安定的な経済成長が続き、BRICSなどという言葉も生まれたが、先のブラジル日本商工会議所の日本企業会員数は2004年をボトムに増加し、2014年には231社と1980年の215社を上回っている。景気の波に少し遅れて我が国企業の進出数も増減を繰り返している状況が見て取れる。これから進出していく日本企業もあるだろう。地球の反対側にあって状況がつぶさには分かりづらい日本の企業からすれば、機動的に進出・撤退を繰り返すのもやむを得ないことかもしれないが、欧米企業は総じて腰が据わっている。地理的に近い分グループ戦略の中での重要度が違うのだろう。日本にとっての東アジア、東南アジアと同じだ。もっとも出入りの激しい日本企業は我々中小企業診断士にとって良客になり得るかもしれないが。

 来年はリオデジャネイロオリンピックが開かれる。ブラジル人はオリンピックでは盛り上がらないが、外国からの訪問客が増えれば多少景気に良い影響もあるだろう。診断士の方の中にも旅行がてら訪問される方もいらっしゃるのではないか。

 という訳で、本章ではこれから企業がブラジルに進出するにあたって注意すべきこと等を書こうと思ったが、税制、法律、諸規制などのフィージビリティスタディ的事項については詳しい書籍が複数発行されているのでそちらをご覧いただくこととして、オリンピックを来年に控え、これからブラジルを訪問される方のために、ブラジルで楽しい時間を過ごして頂くために最も重要だと思われる治安の問題について採り上げ、筆者の経験を交えた注意点などをご紹介することとしたい。ブラジルに限らず、外国旅行をされる方にもリスク感覚として参考になるのではないか。また外国に行かれない方は、読んで驚いて頂ければ幸いである。

2. サンパウロやリオデジャネイロの治安
 安全がタダの国である日本の皆さんが一番気にするのは治安問題であろう。在サンパウロ総領事館が公表した2012年のデータによれば、サンパウロ市における人口10万人当たりの発生件数を見てみると、殺人事件は12.0件で日本(0.81件)の14.8倍。強盗発生件数は1378.7件で、日本(2.87件)の約480.4倍、窃盗は2116.1件で日本(815.9件)の2.6倍となっている。在リオデジャネイロ総領事館のHPによれば、2010年にリオデジャネイロ州で発生した殺人事件の発生率は日本の30倍となっている。総じて所得水準が低い地域で発生率が高い傾向にあるが、都市部だけの統計か、非都市部を含むものかで違ってくるので、一つのデータをもって全体を判断することはできない。因みに国連薬物・犯罪事務所が発表した2013年の国別殺人事件発生件数によれば、人口10万人当たりでブラジルが26.54件、日本が0.28件となっており、ブラジルの数字は日本の95倍となっている。

3. 殺人
 ブラジルにおける殺人事件の発生率は日本の数十倍であるが、皆さんはどのような日常を想像されるだろうか。朝起きて外に出ると死体がゴロゴロ転がっているイメージだろうか。最近は日本国内でもやたら殺人事件の報道を目耳にするが、その数十倍ともなればとんでもない世界であろう。ところが、日本人が住むような普通の生活圏ではまず殺人事件には遭遇しない。その殆どは麻薬マフィア等がはびこる貧民街区(ファベーラという)での勢力争い等によるものなのだ。強盗にしても目的は金品であり、金品が手に入れば命までとることは殆どない。くれぐれも麻薬密売組織などには入らず、普通に生活していれば殺人事件は遠い世界の話なのである。金目当ての殺人などは逆に最近の日本の方がよく聞かれるのではないか。

4. 窃盗・強盗
(1) 置き引き
 外国からの訪問客がまず注意しなければならないのは、空港やホテルロビーでの置き引き被害であろう。日本では、荷物から誤って目や手を放してもモノがそこに残っている、或いは交番に届けられている、ということに驚く訪日観光客が多いが、ブラジルでは無くなるのが普通である。残っている方がおかしい。もし残っていたら近くにいた泥棒さんは切腹ものである。訪問客としては、荷物は常に自分や同行者の目の前か足の間に置くようにすることである。

(2) ひったくり・強盗
 スマートフォンやネックレス、腕時計をひったくられる被害も発生している。ハンドバッグやポーチ類はしっかり持っているつもりでもひったくられる。腕時計に至ってはまさに力尽くである。つい最近も、リオデジャネイロの海岸で外国からの観光客がお尻のポケットに入れていたスマートフォンを強奪されるニュースが流れていた。それは泥棒さんからすれば、いかにもひったくってくださいと言わんばかりの状態であった。
筆者が30年程前の学生時代にサンパウロを訪れた際は、街中で青少年からやたらに足元をジロジロと見つめられた経験がある。履いていたスニーカーが人気だったのだ。さすがにそれは盗られないだろうと思われるだろうが、実際履いていたものを強奪された者もいたようだ。筆者も少年二人に後をつけられたことがある。尾行は下手で注意していれば直ぐ分かる。スニーカーが狙いだったか、肩から下げていたスポーツバッグが狙いだったか分からないが、ちょっと怖かった。意を決して後ろを振り向きファイティングポーズをとったら逃げて行った。襲われなくて良かったぁ~。
ひったくりと言えば、ブラジル最南端のリオ・グランデ・ド・スル州の州都ポルト・アレグレで、スーツなどのズボンの横ポケットに入れていたお金を後ろからとられたという話を聞いたことがある。例えば右の横ポケットにお金を入れていたとしよう。泥棒さんは後ろから右手を入れ、お金を握ると同時に左手で背中を強く押して被害者を突き飛ばし、被害者が態勢を整えて振り返った時にはどこかに消えているというのだ。それ以来筆者は、ブラジルでのプライベートでは、お金を裸でズボンの後ろポケットに入れるようにしていた。横のポケットには手を入れやすいが、背中を押しながら後ろのポケットに手を入れることは難しいだろうと思ってのことで、そのお蔭か幸いにもそのような被害にあったことはない(ハイパーインフレで使っていたのは殆ど札のみ)。近頃はベルト式の小物入れもナイフで切られて持って行かれるという話も聞く。持ち物は必要最低限にし、分散し、できれば手には何も持たない。人が手を入れやすいポケットは避ける。等の注意が必要である。
因みにポルト・アレグレという都市は、スペインのサッカーチーム、バルセロナにいたロナウジーニョとその兄が所属していたグレミオやインテルナシオナルといったサッカーチームがあるところだ。ドイツ系移民が多く、山沿いでは雪が降る。放牧民ガウーショ(gaucho)で知られる土地でもある。彼らが履いているパンツがガウチョパンツといって昨今日本でも流行っているようだ。ガウチョはスペイン語読みで、隣接するウルグアイやアルゼンチンにいる放牧民のことである。
話が横道にそれてしまった。窃盗の話に戻そう。注意すべきは、余計なものは持たない。例えば時計。ブラジル人は時間にルーズなので、正確な時間は必要ない。大体の時間であれば街中ある時計で十分(合っていないが)。それでも高級腕時計で金持ち感をアピールしたい方にはパーティなどの限られたスペースでの使用をお勧めする。目立たないのが一番であり、できれば現地の普通の店で買った衣類を身に纏い、繰り返すが手には何も持たないのが良い。
在サンパウロ総領事館は、注意事項として「ラフな服装と最小限の所持品」、「貴重品の分散所持」、「携帯電話で話しながら歩かない」、「不用意に写真を撮らない」、「目立つ服装や装飾品を避ける」、などを呼びかけている。

 帰国して目につく光景がある。それは、ショルダーバッグの口がパックリ空いていて、中の財布やスマホが丸見えの女性。そのような場面に遭遇する度、筆者は思う。「手を伸ばせば抜き取れる」(想像だけです)。また、ズボンの後ろポケットから、如何にも「オレは大金を持ってるぞ」、という感じで大きな札入れを半分はみ出させている男性。やはり筆者は思う。「人ごみの中ならスリ取れる」(当然頭の中だけです)。外国で真っ先に狙われそうな日本国民達である。筆者はどうしているかというと、札入れ財布を持つのをやめた。リスクの軽減(=reduce of risk)である。お札の枚数を極力少なくして折りたたんで財布ではないものに忍ばせている。硬化は小さながま口の小銭入れを使っている。休日は基本的に手ぶらだ。

(3) 車強盗
 ブラジルでは、夜運転するとき、往来の少ない地域では赤信号でも進め、と教えられた。止まると物陰から拳銃を持った強盗が寄ってくるからだ。しかし注意していてもそのような事件に遭遇することはある。車強盗に遭ってしまった際の備えとして、100ドル~200ドルを常に用意しておいた方が良いと言われる。強盗にそれを渡せばそれで済むということだった。幸い筆者はそのような強盗には合わなかった。
日本の駐在員の中には護身用として許可を得たうえで拳銃をダッシュボードに入れていた人もいたが、それが強盗を刺激してしまうと逆にリスクは高まる。難しいところである。因みに筆者がいた事務所の社用車は防弾仕様だった。
在サンパウロ総領事館は、注意事項として「夜間は信号待ちで先頭にならない」、「追突されてもあわてて車を降りない」などを呼びかけている。

5. その他
 ブラジルの話ではないが、知り合いが中米の国へ旅行をした時の話。タクシーに乗って最後に運賃を支払う際(仮に40ドルとする)、100ドル紙幣を渡してお釣りを貰おうとしたところ、運転手から「お客さん、これは10ドル紙幣ですよ」と言って10ドル紙幣を見せられたと言うのだ。反論しても証拠不十分で、結局別の100ドル紙幣を払ってお釣り60ドルを貰ったそうだが、知人は「確かに最初100ドルを渡した。運転手は手に10ドル紙幣を忍ばせていて、こちらが100ドル紙幣を渡した直後にその10ドル紙幣を見せてきたのだ」と言う。明らかに詐欺であるが抗議も無駄である。こういうのを銀行員の世界では「現金その場限り」と言う。即ち現金はその場でお互いが確認し合わないと事後に起きたトラブルには対抗できないと言うことだ。こういう時には相手に100ドル紙幣であることを認識させたうえで渡すようにしなければならない。
因みに在サンパウロ総領事館は、「ラジオタクシー(会社名)か、タクシー乗り場に駐留しているタクシーを利用する」、「流しのタクシーを利用する場合は車体に組合名が明記されており、車内に運転手の名札がきちんと掲示されている車を選ぶ」、「呼び止めたタクシーでも、車体や車内を見て不安を感じたらやり過ごす」、と言うことを呼びかけている。

6. さいごに
 万一海外で被害に遭われた場合は、まず警察に連絡を取っていただきたい。合わせて在外領事館にも報告されたい。そうならないことが一番であるが。
私見を含め随分無駄な話をしたことをお詫びする。ただ少しでも、「へー、そうなんだ」と思っていただけたら筆者は大変うれしく思う。最後になるが、ブラジルを始め、治安がよろしくないと言われている国・地域に行かれる際は、くれぐれもご用心されたい。


以上

(2015年10月)



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