香港、今と昔と歴史と

国際部 三村行夫 

10月下旬、5年ぶりに香港を旅行しました。
初めて行ったのが30年近く前で、それ以来プライベートと仕事とで、割とコンスタントに行っています。その間イギリス統治から、中国への返還という大きな変化がありましたが、その時々に香港は様々な表情を見せながらも、いつもダイナミックでエキサイティングな街であり続けています。同時に、ある意味では街として成熟していますから、ピークを過ぎつつある大人としての悲哀もあって、それもまた悪くありません。

外国からの香港訪問者数は、年間4,600万人です。うち7割が中国本土からなので、それを除いても、1,400万人の中国人以外の外国人が、東京都の半分くらいの広さしかいないところを訪れていることになります。日本を訪れる外国人が、やっと年間1,000万人を超えるというあたりであり、それに比べると香港の持つ、観光とビジネスでの外国人吸引力は非常に大きいということがわかります。また、香港の面積の大部分は新界地区という、中国本土に近い郊外地域であり、外国から香港を訪れる人は、ほとんどが香港島の一部と九龍半島の先端あたりに集中していることを考えると、この付近の訪問者密度はもっと高くなります。ちなみに、日本からの香港への訪問者数は、年間120万人です。



今回は、例年の女房へのサービス旅行で行きました。香港をほとんど観光したことがない女房のための訪問でしたので、定番の観光地にも行きましたが、今までとは少し違う香港を見つけることが出来ましたので紹介します。
最初は定番観光名所から。



[スター・フェリー]
映画「慕情」と変わらない

<ビクトリア・ピーク>
香港でいちばん高い、標高550mの山ですが、暑さを逃れるために住み始めたイギリス人のために、香港で最初に作られた交通機関であるピーク・トラム(ケーブル・カー)が、今でもしっかりと活躍している、今も昔も香港観光のいちばんの人気ポイントです。
昔と変わらないのは、ピーク・トラムが標高差350mを10分かけて昇り降りすること、途中に30度近い急な傾斜があることくらいです。トラムの車両も今は5代目になり、山頂の展望施設ビルが新しくなり、その中にマダム・タッソーの蝋人形館が出来ました。しかし、いちばんの変化は、展望台から眺める景色です。それこそ、香港上海銀行の本店ビルがいちばん目立つ建物だったのが、今はもう山の上からは見えません。また、世界でいちばん離着陸がむつかしいと言われていた、啓徳空港での安全確保のため、九龍半島では高い建物が建てられませんでしたが、ランタオ島に空港が移ってからはその規制もなくなり、100階建てのビルが出来ました。

 

[ビクトリア・ピーク 1986年] [ビクトリア・ピーク 2013年]

2枚の写真を比べると、まさに昔日の観があります。

<アバディーン>
アバディーンはもちろん、イギリスの地名からとった名前ですが、香木を輸出する港だったので「香港仔(ホンコンツァイ)」と言われ、それが香港の名前の由来になりました。
かつては、香港で最も有名な観光名所の一つでした。大きな船の形をした水上レストランが3つあり、夕食に行って、中国的な色彩の灯をバックに写真を撮り、あまりおいしくない海鮮料理を食べるというのが、お決まりでした。
・・・が、それは昔の話。3つあったレストランのうち1つは撤去され、残り2つのうち営業しているのは、いちばん大きなジャンボ・レストランだけです。もともと、水上生活者が多くいるところでしたが、今は1艘が何十億円もするような大きなクルーザーの繋留地になっています。
ジャンボ・レストランも、いったいいつまでもつのやらです。タイガー・バーム・ガーデンと同様、アバディーンの水上レストランも、そのうち過去形になるのかも知れません。
余談ですが、ジャンボ・レストランはシンガポールに出店しており、こちらの方は美味な海鮮料理店です。ここで食べる、シンガポール名物の、ペッパー・クラブは悪くありません。



[アバディーン]
水上レストランとクルーザー

定番観光地はこれくらいにして、次は今回の発見を紹介します。

<香港歴史博物館>
開館したのは1975年で、九龍半島の香港理工大学の近くにあります。
「香港の歴史と言ったって、どうせアヘン戦争以前は何もなかっただろう」と思っていましたから、地下鉄駅から少し距離があることもあって、今までは行ったことがありませんでした。今回、初見学でしたが、興味深く観ることが出来ました。「アヘン戦争以前は何もなかった」というのはその通りですが、4億年前のデボン紀の地層から説明を始めているのには、少し笑ってしまいました。
http://hk.history.museum/en_US/web/mh/index.html

客家(はっか)
香港歴史博物館には中国文物として、祭礼道具や京劇のジオラマと並んで、客家の家屋が展示されています。香港には今も昔も、客家が多いことを知りました。
客家というのは、漢民族発祥の地と言われている中原地方から、北方民族に追われるように南の方に移住と定住を繰り返していった人々のことです。どこに行っても「よそ者」扱いされたので、「客」と呼ばれています。移住先も、中国内だけではなく、東南アジア諸国に華僑として拡散してゆきました。現在では、客家系の人口は世界中で4,500万人、香港には70万人ぐらいいるそうです。
客家出身者には、歴史上の人物が数多くおり、朱熹(朱子学)、洪秀全(太平天国の乱)、宋慶齢(孫文夫人)、宋美齢(蒋介石夫人)、鄧小平、李鵬 、李登輝(台湾元総統)、タクシン・チナワット(タイ元首相)、リー・クァンユー(シンガポール初代首相)、コラソン・アキノ(フィリピン元大統領)など、多くの政治的リーダーもいます。
私は今回の滞在中に、郊外にある客家博物館に行くことにしました。

アヘン戦争と香港割譲
よく知られているように、アヘン戦争は、茶などの中国産品がイギリスでブームになり、支払いに必要な銀の不足を補うため、インドで栽培したアヘンで決済するようにしたことが原因です。1840年から2年間の戦いでしたが、勝利したイギリスは香港島の割譲を受けます。
イギリス議会での開戦の議決は、かろうじて賛成が上回りましたが、反対派のグラドストン卿をして、「その原因がかくも不正な戦争、かくも永続的に不名誉となる戦争を、私は未だかつて知らないし、読んだことさえない。」と言わしめました。
正義がどちらにあるかということは別の議論として、清が負けた理由は、清が西欧列強の強さを、十分に自覚していなかったことにあります。また、欧州の片隅にある国土の小さなイギリスを、なめていたところもあります。このあと、太平天国の乱をはさんで1856年に起こった、第2次アヘン戦争(アロー号事件)でまたも清は、イギリス(及びフランス連合軍)に敗れてしまいます。このアロー号事件も今から見ると、まるで暴力団による押し入りのような出来事で、第1次アヘン戦争以上に義のない戦争でした。この勝利により、イギリスは新界地区までの広範囲の割譲を受けました。
アヘン戦争の敗北自体を、その時点では清はあまり深刻に受け止めていなかったと思われますが、この戦争がその後東アジアに与えた世界史的影響は、非常に大きなものでした。日本はこのことによって覚醒し、危機感を持って富国強兵を進めます。また、欧米列強による東アジア、つまり清への進出や侵入のきっかけにもなりました。
アヘン戦争によって大きく富を増大させた、俗に言う麻薬商人はいくつかありますが、有名な会社にサッスーン商会とジャーディン・マセソン商会があります。詳細は専門書に譲りますが、サッスーン商会は香港上海銀行(HSBC)を創設し、アヘンなどで得た莫大な利益を、本国イギリスに送金していました。この銀行は現在でも、世界最大の銀行として存在しています。また、化粧品やファッションで有名なヴィダル・サッスーンの起源でもあります。
ジャーディン・マセソン商会は、英国東インド会社を母体として設立され、中国でのアヘンと茶の貿易を主業務としていました。アヘン戦争にはもっとも深くかかわり、イギリス議会の開戦承認は、同社のロビー活動によるものでした。その後、日本にも貿易の機会を求め、トーマス・グラバーを長崎に派遣しました。グラバーは明治維新での、薩長土佐などの武器調達に大きな役割を果たしたことは、良く知られています。再度余談になりますが、他国では商売に有効な賄賂が、日本では全く機能しなかった、つまり誰も受け取らなかったと、のちにトーマス・グラバーは述懐しています。



[香港歴史博物館]
20世紀初頭の街並み

不思議なことに、香港歴史博物館では、この「不正な戦争」への非難がほとんどありません。また、割譲によるイギリス統治時代を、都市化の進行という言葉で、肯定的に表現していました。イギリス統治時代を経て、現在の香港ができたのは間違いないのですが、少なからず奇妙な感じがしました。東南アジア諸国によく見られる旧宗主国崇拝、一種の白人崇拝ですが、それとも少し違う気がします。博物館の展示内容は、中国共産党の検査を受けているはずですから、おそらく方針なのでしょう。
中国の近代化は、アヘン戦争から始まったと最初に言い始め、その後の定説を作ったのは毛沢東です。客観的に見ればそうとも言えますが、当時の状況をなぞると疑問です。中国の近代化の目覚めは、日清戦争の敗北という説が有力です。日本に負けて目覚めたと、言いたくない心理があるのかも知れませんし、すべて歴史はプロパガンダの手段という国ですから、アヘン戦争の位置づけも、いろいろな思惑があるのだろうと思います。

<三棟屋博物館>
九龍半島の尖沙咀(ティム・シャ・ツイ)から赤色の地下鉄で北の方に30分行ったところの終点に、?湾(ツェンワン)という街があります。客家の集合家屋が保存されて(、正確には移築保存されて)、三棟屋博物館として公開されています。
客家は中国国内では、福建省西南部、江西省南部、広東省東北部などの山岳地帯を中心に住んでいます。この三棟屋博物館は、福建省の寧化という地から、陳姓一族が清朝時代の18世紀末期に移住してきて建造したものです。
客家の家屋の特長は、
・方形または円形の集合住宅
・大規模なものは、3階建て、4階建て
です。福建省にある、円形の建物は世界遺産にも登録されていますから、一度はテレビ等でご覧になったかと思います。


[三棟屋博物館入口]

三棟屋博物館は、さほど大規模なものではありません。内部にロフトのような中2階がありますが、基本は平屋建てです。全体は方形で、40m×50m位の広さを持ち、15家族くらいが暮らせるスペースが周囲に並んでおり、中心部は共用スペースにもなっています。この集合住宅を囲屋といい、ひとつの囲屋がひとつの村を形成しています。入り口は南側にひとつだけというのは、囲屋の特徴です。



[三棟屋博物館平面図]

客家を特徴づけるものがいくつかあります。
・客家語を喋る
・始皇帝以来の、民族の父系の族譜を伝承しているため、自ら正統な漢民族の子孫であるという意識が高い
・第二次埋葬を行う(埋葬した死体を4~5年後に掘り起こし、骨を、1本、1本、椿油で洗い清め、陶のカメに収めて、埋葬し直すこと。沖縄にも似た風習があった)
・祖先崇拝、精霊信仰、風水、道教、朱子学
三棟屋博物館は、香港政庁に管理されており、入場料は無料でしたが、きれいに清掃維持されていました。入り口からいちばん奥の方が展示室になっており、?湾の街の変わり方を写真で説明してあります。80年前には、人口数千人の寒村だったところが、大陸からの人口移入と、軽工業地帯としての工業化を契機として、急速に発展してきたことがわかります。一時期、至るところで目にした、「Made in Hong Kong」はここで作られていたのです。今の?湾は、高層マンションの立ち並ぶ、ベッドタウンになっています。

<志蓮浄苑>
他の中華圏と同様に香港にある寺院は、黄色や赤に塗られた派手な外観と、仏とか、神として祀った歴史上の偉人とかに、ひたすら現世利益を求めて線香をあげるというのが定番です。しかし、日本人感覚からすると、やはりお寺と呼ぶには強い違和感があり、単なる観光名所として見学するというのがパターンではないでしょうか。そのような香港に、日本風のお寺があると聞いて出かけたのがここです。
尖沙咀から2つ目の油麻地(ヤウマティ)で緑色の地下鉄に乗りかえ、15分くらい乗った鑽石山(Diamond Hill)という駅で降りてすぐのところにあります。
黒い瓦に茶色の柱と壁。「日本のお寺とは、ちょっと違う」という感じはしますが、確かに日本風です。説明書には、唐代様式の木造仏教寺院とありました。もともと、20世紀初めにできた尼寺だそうですが、地域の再開発工事に合わせて建て替え計画が持ち上がり、大きな寺院として2000年に造られました。



[志蓮浄苑]

木造技術、瓦吹き技術など、唐代様式を再現するために必要な、技術や人材が香港だけでなく、中国にもないため、日本に協力を仰いだそうです。瓦や雨樋、欄干の烏帽子などの建材は日本から運び、日本の宮大工による建設作業となりました。日本風というのは、こういったことも影響しているのだとも言えます。
現地で購入したパンフレットは、漢字文の説明ですが、残念ながら日本の協力という文言は見つかりませんでした。

<おわりに>
定番観光地を巡る現地ツアーのガイドさんである、香港人の邱(きゅう)さんといろいろ話をしました。質問も2つほどしました。中国本国人と香港人を見分けることが出来ますかと聞いたところ、出来るとのことでした。男性の場合は髪型が違うそうです。本国人は、いわゆるスポーツ刈りが多く、香港の男性は絶対にしないということ。また表情が違うそうで、香港人は、おっとり、のっぺりとしている。確かにその基準で見ると、見分けることが出来ました。次に、香港人は、「自分は香港人であり中国人ではない」という意識を持つ人が多いと聞くが、あなたはどうですかと聞きました。自分はあくまで中国人、香港系中国人だと言っていました。なぜなら、先祖は中国から来たのだからと。ちなみに、邱さんは客家だとのことでした。
自分は中国人だという邱さんですが、香港人と中国人との違いを外見だけでなく、内面的なところにおいても、否応なく認識しているようでした。バス停を通り過ぎたとき、「ちゃんと、列を作って並んでいるでしょ」と、香港人の民度の高さを説明していました。
香港では、失業率の低さや平均収入の高さ、低所得層への支援などが実現されており、これだとマナーや治安は自然と良くなります。この長所は言うまでもなく、イギリス統治時代を経て身に着けたものだと思います。中国人のバイタリティーやしたたかさを、同じ民族である香港人も当然持っていますが、この中国人の特質は、イギリスというフィルターにかけられて、香港人の中で上澄み化されていると感じました。シンガポールと一部共通しますが、現時点ではかなり成功した実験国家ではないかということを強く感じた、今回の香港訪問でした。

以上


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