海を渡ったトウフ ~ 豆腐からTofuへ (前篇)

国際部  飯崎 充

日本人に豆腐が大嫌いという人はそういないのではないでしょうか。

畑の肉とも言われるすぐれた蛋白質食品。夏なら冷奴、冬なら湯豆腐、みそ汁の具の定番。これでも料理か、と言われそうな食べ方ですが、素のままで食べるあの淡白な味わいが日本人は大好きなようです。

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           冷奴           中華の定番 麻婆豆腐

 豆腐は豆が腐ると書きます。筆者が小さかった頃、豆腐と納豆は中国から日本に伝わる際に呼び方が取り違えられた、という説を耳にしました。一見もっともらしく聞こえますが、中国でも豆腐は「豆腐」で、発音はdoufu(ドウフ)です。韓国ではdubu、東南アジアでもto-fudaufutafutaho  ---  ですから、やはりもともとからして豆腐で、その呼び名が中国からそのまま広まったと考えるのが自然でしょう。

ではなぜ豆腐は豆の「腐」なのか。「腐」の字は、肉+府。このうち府は「くら」の意味で、腐は、獲った獣の肉を倉で保存しておく状態を表したもので、最初は死後硬直で硬かった肉が保存している間に食べられるくらいに柔らかくなったことから、肉に限らず柔らかくぷよぷよしたものを指すようになった、という説が有力です。

豆腐発祥の地は中国とされ、明の時代16世紀の「本草綱目」の中に、紀元前2世紀、前漢の准南王・劉安の創作になると記載されています。しかし、豆腐に関する記述が他の文献では唐の時代以降まで見当たらないことから、准南王説は後代の創作で実際の起源は唐代の中期以降ではないかという説もあり、はっきりしていません。また、そもそもの豆腐は、北方遊牧民族が持ち込んだ乳加工品、乳の保存形式である「乳腐」をまねてその代用品として作られたという説もあります。いずれにしても豆腐が中国で一般的になったのは宋代になってからのようです。

日本への伝来の時期もはっきりとしませんが、12世紀末の奈良春日大社神主の日記に「唐符」の記載があり、平安時代の院政期までには恐らく僧侶の手によって伝えられていたようです。同様の時期に、大陸内の人の往来によって豆腐は東アジア、東南アジアに広まりました。

豆腐の製法は古来あまり変わりません。大豆を水に浸漬してふやけさせてから加水しながら磨砕して呉汁をつくり、これを濾過して豆乳をとって凝固剤を加えて固める、というものです。もともとの中国の製法は呉汁を搾って豆乳をとってから加熱する「生搾り法」で、アジアでもこれが一般的でしたが、日本では呉汁を煮てから搾る「煮搾り法」(加熱搾り法)が独自に発達、江戸時代には煮搾り法が一般化していたという違いがあります。

また、日本では豆腐を素に近い状態で食するのを好むためか豆腐には白くて柔らかいイメージがありますが、中国・アジアの豆腐は炒める、揚げる、発酵させるという調理・加工法が一般的で概して日本の豆腐より堅めだったようです。この食べられ方の違いは、日本は水が豊富でかつ軟水だったということも起因しているように思います。水がきれいだったので素で食べても美味しかったということではないでしょうか。

ところで、豆腐は東南アジアには伝わりましたが、陸続きなのに中央アジア・ヨーロッパに伝わることはありませんでした。何故でしょうか。理由はいたって単純で、大豆がなかったからです。かつて大豆の産地は、中国、日本、朝鮮から東南アジア、ヒマラヤ中腹地帯まででした。

大豆の英語はsoy beanですが、soyOxford Dictionary of Englishで引くと、語源としてORIGIN from Japanese sho-yu, from Chinese shi-yu と出てきます。soyの語源は日本語の醤油で、soyの原料だからsoy beanなわけです。大豆より醤油が先に知られていたことがわかります。

大豆栽培に適しているのは弱アルカリ性の土壌です。また、大豆栽培には大豆根粒菌が必要とされます。大豆と根粒菌とは、根粒菌が土中や空気中の窒素を集めて大豆に供給、大豆は光合成で得た炭水化物を根粒菌に供給するという共生関係にあります。この根粒菌の存在で痩せた土地でも高蛋白の大豆が育つわけです。ヨーロッパの土壌では弱アルカリ性、大豆根粒菌という条件が揃わなかったために大豆栽培が広がらなかったのです。

大豆がヨーロッパに伝わったのは18世紀、根粒菌が土壌に存在したアメリカ大陸に伝わったのは19世紀になってからで、栽培が本格化するのは肥料や根粒菌持込の技術が発達して土壌改良が進むのを待たねばなりませんでした。20世紀になって欧米でも大豆が大規模に栽培されるようになりますが、最初は搾油、プラスチック原料など工業用途が主で、その後に(食用)製油用途、飼料用途が広がるものの、いまだに大豆は油脂作物との位置づけで、世界的に見れば大豆を食品として食べるのは少数派、地域は東アジア諸国に限られます。大豆食文化圏とその外との間には大きな壁があるように思えます。

豆は栄養価は高いものの堅くて穀物に比べると調理に工夫と手間がかかる作物です。大豆食文化圏では大豆を食べるために大きな発明が3つなされています。一つめは我らが豆腐、二つめが煮えにくい大豆を発芽させて食べるモヤシ、そして三つめが大豆発酵品です。豆腐とモヤシは大豆食文化圏に広く分布、発酵品は加塩発酵の味噌、醤油の類が中国文化圏に、無塩発酵品のナットウの類が日本やジャワ、ヒマラヤ等に分布しています。

(中尾「料理の起源」) 

          

テキスト ボックス: インドネシアの大豆づくし
Tempe(ナットウ)の唐揚げ(左)と揚げTahu(豆腐)とTauge(モヤシ)の炒め(右) --- 「ジャワ人は3つのTで生きている」と言われる。

 

 


豆を食べるためのこのような発明が、大豆食文化圏の外ではあまりなされませんでした。それに加えて、嗜好の違いもあるでしょう。インドは大の豆食文化圏で様々な豆の様々な料理がありますが、大豆は今では大産地でありながら食材としてはあまり食べられていません。大豆の香りが好まれないようです。(中尾、佐々木「照葉樹林文化と日本」)

このように、大豆栽培が広がっても大豆食文化圏が拡大したわけではありませんでした。近代になって人の移動が世界的規模になることで、豆腐も中国人、朝鮮人、日本人等の海外移住に伴って世界各地に持ち込まれていきます。スターリンによる強制移住策でシベリア・沿海州にいた朝鮮系の人たちが移住させられたことで、中央アジアにも豆腐が持ち込まれたという悲しい歴史もあります。しかし、世界での豆腐食は、ついこの間までアジア系コミュニティーの内部にとどまり、なかなかその外に広がることはなかったのです。

さて、その豆腐がどのようにして世界に受け入れられるようになったのか。

--- この続きは後篇で

 

【主な参考文献・WEBサイト】

日本豆腐協会 http://www.tofu-as.jp/

全豆連 http://www.zentoren.jp/

Wikipedia 豆腐 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%86%E8%85%90

Wikipediaダイズ http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%BA

中尾佐助「料理の起源」NHKブックス(1972

中尾佐助、佐々木高明「照葉樹林文化と日本」くもん出版(1992

菅谷文則、友次淳子「健康を食べる-豆腐」保育社(1995


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