リープ・フロッグとゆでガエル

~ベトナムの成長と日本の停滞~

1. 発展を続けるベトナム

 先日、ベトナム南部の都市ホーチミンとその周辺を訪れた。ベトナムは3年ほど前まで駐在していた馴染み深い国だが、今回の訪問は約1年ぶりであった。発展を続けるベトナム最大の都市には、新しい高層ビルやマンション、コンビニエンスストアなどが次々と完成し、相変わらずバイクが元気に走り回っている。早朝の散歩では客待ちのシクロの親父に人懐こく声を掛けられ、ランチではローカルスタッフの女性たちの屈託のない笑顔に癒される。この国は活気に溢れ、いつも温かく迎えてくれる。
街のあちこちに地下鉄工事の仮囲いが見える。2010年に着工したホーチミン地下鉄1号線は完工期限を何度も延期してきたが、地元の新聞によると2021年初めにいよいよ開業する見通しだという。駐在員たちに言わせれば、公的債務の膨張に悩まされる政府の金払いは相変わらず悪く、工事の進捗も遅れがちであることから、さらに延期もあり得るとのことだが、少しずつ前に進んではいるように見える。

バイク通勤ラッシュ(筆者撮影)

 ホーチミン地下鉄は、現在のところ6路線が計画されており、最初に開業する1号線の総延長は19.7km。市の中心部である1区のベンタイン駅から、ビンタイン区、2区を通り、9区の新東部バスターミナル駅までの14駅が整備される。日本のODA支援を受け、建設工事には、清水建設、前田建設工業、三井住友建設、住友商事といった日本企業が関わっている。また、運行システムや車両は日立製作所が、非接触型ICカードはソニーが提供することになっている。東京地下鉄(東京メトロ)による運行ノウハウ提供も予定されており、まさに日本の協力が結集しての開通となるはずだ。

2. リープ・フロッグ型発展

 社会インフラ整備が遅れている新興国において、先進国が歩んできた段階的な技術進展を跳び越えて新しい商品やサービスが一気に広まることを、リープ・フロッグ型発展と呼ぶ。固定電話の普及を待たずに急速に利用が広がったスマートフォンや、クレジットカード決済よりも早く普及しつつあるモバイル決済が例として挙げられるが、ベトナムでは、バイクの洪水もリープ・フロッグ現象の一つであるとよく語られたものだ。つまり、鉄道網が発達するより先にバイクが普及し、その便利さを国民が知ってしまったということ。最近では、グラブなどのバイク・タクシー配車サービスもいち早く発達し、すっかり庶民の足となっている。このバイク社会に、今さら地下鉄が出現したところで、庶民が果たして積極的に利用するのだろうか。ベトナム人たちにそう問い掛けると、従来の彼らの答えは「そんな不便なものに乗る訳がない」というものであった。
 しかし、四輪車が普及しつつあることも加わって市街地の渋滞がいよいよ酷くなっている現状を考えれば、地下鉄の完成は急務のように思える。地下鉄利用促進策として、政府が市街中心部でのバイク利用規制に乗り出せば、相当な渋滞解消が期待できる。問題となっている大気汚染の緩和にもつながるはずだ。利用が本格的に進むのは、2号線以降の路線網が完成し利便性が確保されてからだとの見方もあるが、街の姿は徐々に変貌していくのだろう。地下鉄沿線となる2区やビンタイン区でのマンション開発が急速に進んでいることを考えれば、駅を基点とした大都市周縁部の経済発展も今後見込まれる。いずれにせよ、ホーチミン地区の
発展の勢いはまだまだ続きそうである。

地下鉄一号線工事現場/ベンタイン駅周辺(筆者撮影)

グラブ配車サービスの運転手(筆者撮影)

3.日本の停滞と2050年の世界

 2017年2月に「2050年の世界」をテーマとした経済展望をプライス・ウォーターハウス・クーパース(以下、PwC)が発表している。GDP世界上位32か国の経済成長を予測した調査レポートである。それによると、ベトナムは2050年まで年平均5%の経済成長を続け、世界の成長を牽引する新興国の中でも最も高成長を遂げる国となる可能性があるという。2016年にGDP(購買力平価ベース)世界32位のベトナムは、2050年には世界20位にジャンプアップするというのだ。一方で、日本の実質GDP成長率は2050年までの年平均で0.9%と調査対象国の中で最低であり、2050年にはGDP世界8位に沈むとされている。成長率の要因を分解すると、年平均人口増加率(日本▼0.5%、ベトナム0.5%)、一人当たり実質GDP成長率(日本1.4%、ベトナム4.5%)となっており、人口の増減だけが両国の成長格差の原因ではない。2050年の予測では、日本のGDPはインドネシアやブラジルに抜かれ、ナイジェリアに肩を並べられる見通しだが、いずれベトナムに跳び越される日が来ないとは限らない。

 
 今回のベトナム渡航の直前に、企業診断ニュース(2019年10月号)の取材で、ある中高一貫校の校長先生と会う機会があった。自身がタイからの帰国子女でもあり海外事情に明るいその校長先生が、伸び行く東南アジアと対比させて日本の停滞への危機感を語っていたのが印象深かった。彼によれば、バブル崩壊この方、日本は焼け野原状態。かつて世界をリードした日本企業は力を失い、高度経済成長を牽引した社会システムは機能不全を起こしている。社会資本だけはまだ潤沢に残っているが、それらを更新するだけの体力も奪われており、20年後には国全体が廃墟になりかねないと憂いていた。本来、日本人のよいところは、簡単に無理だと思わない、失敗を恐れない、クレイジーな突破力であると彼は言う。例えば、耐久性・経済性において卓越した実用小型オートバイを開発し、「バイクはアウトローの乗り物」という社会的イメージが強かった北米で市場を切り拓いてみせた。無理とされていた水晶時計の小型化を実現し、腕時計の時間精度を飛躍的に向上させて世界を驚かせてみせた。偉大な経営者たちが壮大な夢を語りそれを追求した結果、日本は戦後の焼け野原から復興を成し遂げた。その日本が凋落したのは、いつしか失敗を恐れる国となり、同調圧力に満ちた画一的な社会の中でお互いを潰し合っているからだという。
日本の経営者は今、夢を語れているだろうか。ダイバーシティを確保し、未来への投資を行えているだろうか。
目の前の小さい利益にばかりこだわっていないだろうかと彼は厳しく問いかける。
これからの日本人に求められるのは、世界に通用するオープンなマインドセットと、自分なりの意見を発信し筋道を立てて議論する力。高校生たちには、日本を飛び出して海外大学へ進学することを勧めているという。国際的な視野を身に付け、日本を、世界を救う勇者になろうと呼びかける。閉塞した社会を変革するには、若者の活躍を支援し、その破壊力に期待するしかないというのが、先生の持論であった。

平均GDP成長率の要因分解(PPP、2016年~2050年)


4.どちらが幸せなのか?

 もちろん、発展の途上にあるベトナムにも、社会課題は多く残されている。共産党が一党支配する官僚機構には腐敗体質が残り、社会インフラ開発は東南アジア諸国の中でも今のところ遅れ気味。政治指導者間の権力闘争が、インフラ開発の一時的停滞をもたらす局面も見受けられ、交通事故も深刻化している。また、今回の訪問で改めて感じたのは、まだまだ立ち遅れている医療の現状だった。
ベトナムを訪れるたびに元気な笑顔で迎えてくれる元部下の女性スアンが、いつになく悲しい顔をしている。聞けば、バリアブンタウ省で一緒に暮らしていた母親が、つい先日、デング熱で亡くなったのだという。医療への信頼が低く、健康保険制度の普及も遅れているベトナムでは、病気になってもすぐに病院にかかる人は稀であり、重症化してからの病院受診になりがちなのだとか。彼女の母親の場合もそうで、病院受診した段階ですでに手遅れだったと悔やんでいた。私が駐在していた頃も、ローカル病院のレベルの低さは、駐在員の悩みの種であった。施設や医療機器が整っておらず、衛生状態も十分でない。日本人が深刻な健康状態となった場合には、大都市にある外資系病院かシンガポールやタイでの治療が推奨されていたものだ。今年もベトナムではデング熱が流行し、4月末時点で患者数は昨年の3倍の5万7,000人になっているという報道があった(WHO西太平洋)。足下までに10人を超える死者が出ているらしい。経済発展に見合う医療の整備が求められている。
帰国すると、日本は交通網や医療が発達し、安全で便利な国だと改めて実感する。しかし、その豊かさとは裏腹に、通勤電車や繁華街ですれ違う人々の表情にはどこか生気がなく、ベトナムの人々の屈託のない笑顔が懐かしくなったりもする。過去の遅れを跳び越えて成長を遂げつつある新興国と、ゆでガエルに見える日本。どちらに暮らすのが幸せなのか。日越の交流を支援することで、ベトナムの発展に少しでも協力したいと思う一方で、国際的視野をもった若者が変革を進める日本にも期待をつなぎたいという思いを強くした、今回の旅であった。

城西支部 中岡 康